湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。
ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。
初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。「綺麗な人、だったな……紅音さん……」
小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。
* * *
柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。
清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。
勿論彼女のことを、まだ何も知らない。 しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。
毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。 いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。 しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。 それが嬉しかった。 その時、突然ドアが開いた。「柚希―、湯加減どう?」
短パンにティーシャツ姿の早苗だった。
「うわっ!」
柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。
「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」
「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」
「いい訳ないから」
「おー、思春期思春期、あはははっ……でさ、柚希」
「……まず向こう向いてよ」
「うん……あのさぁ柚希。あんた放課後、山崎たちといたじゃない? 今日も帰り遅かったし、ひょっとしてあんた、あいつらに何かされてない?」
「……」
「私、これでもクラス委員じゃない? クラスでの揉め事やトラブルには、きちんと手を打ちたいんだ。女子に聞いたらね、その……あんたが山崎たちに……手を出されてるとかって」
「……大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「転校してきたばかりでまだ馴染めてないけど、でもいじめられたりしてないから。今日は本当に小川に行ってたんだ。いいところだよね、あそこ。次の休みに、カメラ持ってまた行くつもりなんだ」
「本当? 本当に? 柚希、私は柚希のお父さんから、あんたのこと頼まれてるんだからね。隠さずに話してよ」
「ありがとう。でも本当、大丈夫だから。それに山崎くんたちには……ちょっとからかわれたりする時もあるけど、いじめられてるとかじゃないから。だから早苗ちゃん、心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」
「……分かった。柚希がそう言うなら信じる。この話は終わり! それじゃあ柚希、背中流してあげるね」
「あの、その……早苗ちゃん。僕にとっては、そっちの方がいじめなんですけど」
「失礼なこと言うね。これでも私、男子からそこそこ人気あるんだからね。その私に背中流してもらうなんて、これ以上にないご褒美だよ?」
「ははっ、かもね。でも遠慮しておくよ」
「そう? 後悔しない?」
「しないしない」
「あはははっ。じゃあ柚希、カルピス作っておくからね。上がったら飲むんだよ」
「うん、ありがとう」
早苗が陽気に笑い、ドアを閉めていった。
早苗の気配が消えたのを確認して、湯船から出ると再び体を洗い出す。
この早苗の強引さにいつも振り回されているが、彼女の自分に対する気配りには感謝していた。 学校でも、いつも気を使ってくれている。 そのことで、男子から嫉妬の目で見られることもあった。早苗がさっき口にした山崎たちにしても、いじめられるきっかけは嫉妬だったと柚希は理解していた。 しかしそれで、早苗に嫌な感情を持つことはなかった。 父、誠治との約束を守り、心細かった見知らぬ土地での生活を支えてくれる早苗は、柚希にとってかけがえのない存在だった。風呂から上がると、テーブルにはカルピスが置いてあった。
柚希の好み通り、氷が三つとストローが差してある。 柚希は小さく「いただきます」とつぶやき、ストローを口にした。* * *
布団に寝転び、天井を見つめる。
今日は色々あった。
また明日も、山崎たちからの陰湿ないじめが待っている。 そのことを考えると、少し憂鬱になった。 明日はどんないやがらせが待ってるんだろう。 いつもはそのことで頭がいっぱいになり、眠れぬ夜を過ごしていた。 しかしこの日は違っていた。いつの間にか、柚希の頭の中は紅音〈あかね〉でいっぱいになっていた。
赤く大きな瞳、透き通るような白い肌。美しい銀髪。 間近で感じた甘い吐息、優しい声。 柚希の胸がまた高鳴っていった。「また明日、会えるんだ……紅音さん……」
「じゃあ柚希〈ゆずき〉、そろそろ帰ろうか。準備も出来てると思うし」「なんか悪いな。僕なんかの誕生日で」「ゆーずーきー」 柚希の耳たぶを、早苗〈さなえ〉が力一杯に引っ張る。「いたたたたたたっ、ごめん、ごめんってば、早苗ちゃん」「あんたねえ、たった今彼女になった私の前で、よくも僕なんかって言ったわね。それってさ、そんな男を好きになった私に対する侮辱だよ?」「いたたたたたたっ、だからごめん、ごめんって」「もう言わない?」「言わない言わない」「よし、許した」 早苗が耳たぶを離す。「はあっ……結構本気で痛かったよ」「じゃあ」 そう言って、柚希の頬にキスをした。「わっ……さ、早苗ちゃん、恥ずかしいよ……」「おまじないよ、おまじない。痛いの痛いの飛んでけーってやつ」「……でも今の、さっきのキスより恥ずかしかったかも……」「も、もう馬鹿柚希、そんなに照れないでよ。私まで恥ずかしくなるじゃない」「むふふふっ」 聞き慣れた笑い声。 二人が慌てて振り向く。 コウを連れた晴美〈はるみ〉だった。「むふふふっ。お邪魔だったでしょうか」「……し、師匠?」「いや、だから晴美さん、いつもなんてタイミングで出てくるんですか」「むふふふっ。別に私、隠れてお二人の愛の告白を一部始終、盗み聞きなんてしておりませんからご安心を」「師匠―っ!」 早苗が顔を真っ赤にして叫ぶ。「ははっ……全部、見てたんだ……」「いえいえ、これはあくまでもアクシデントでございます。コウを連れて早苗さんのお宅に伺う道中、偶然お二人の姿
風が少し、強く吹いた。「え……」 早苗〈さなえ〉が顔を上げ、柚希〈ゆずき〉を見つめる。 そこには早苗の大好きな、穏やかな笑顔があった。「早苗ちゃん。好きです」 聞き間違いじゃない。 柚希は今、自分のことを好きだと言った。「あ……」 早苗が声にならない声を漏らし、その場にへなへなと座り込んだ。「だ、大丈夫? 早苗ちゃん」 柚希が早苗の腕をつかみ、慌てて自分も腰を下ろした。「私の耳……変になったかも……」「早苗ちゃん、変になってないよ……って言うか、どう聞こえたの?」「柚希が私のこと、好きって……付き合ってって……」「うん。僕、今そう言ったよ」「本当? でも、どうして……」「僕が早苗ちゃんのこと、好きだから」「そんなこと……だって柚希は、紅音〈あかね〉さんのことが……」「確かに僕は、紅音さんのことが好きだった。今も好きだよ。この気持ちは、これからも変わらないと思う」「だったら」「僕は早苗ちゃんから気持ちを伝えられた時、少し時間がほしいって言った。それは僕の中に、早苗ちゃんと紅音さん、二人の女の子が間違いなくいたからなんだ。 だから僕は、自分にとって何が本当なのか、考えたかった。それをずっと、ずっと、考えてた」「……」「あの日、僕はこの場所で、紅音さんから告白されたんだ」「紅音さんから……」「嬉しかった。憧れの紅音さんからそんな風に想ってもらえて……でもね、同時に紅音さん、僕を振ったんだ。『でも、柚
祭りの最中、突如として死の大地になった神社。 その衝撃的なニュースは、のどかな自然が広がるだけだったこの街を、一夜にして日本一有名な街へと変えてしまった。 毎日の様に空を旋回する報道ヘリ、街を歩けばカメラを向けられ、コメントを求められた。 また、この日を境にして忽然と姿を消した5人の行方もつかめず、週刊誌が「現代の神隠し」との見出しで騒ぎ立てた。 神社の境内では、今も調査が続いていた。 原因が全く分からない、この奇怪な現象。 土は死に絶え、向こう10年は何も育たないだろうとも言われた。 山の中腹に出来た楕円形の荒地には、神々からのメッセージなのではないか、UFOが降り立った跡なのではないか、などと言ったゴシップ的な噂も流れ、世間は無責任に盛り上がった。 しかしいくら調べても特に進展することもなく、二週間も過ぎた頃には世間の熱も冷め、報道する回数も日に日に減っていき、街は少しずつ平穏な日常に戻っていった。 * * * 柚希〈ゆずき〉や早苗〈さなえ〉も、元の生活を取り戻しつつあった。 あの日の後、柚希は早苗と孝司〈たかし〉に全てを打ち明けた。 最初の内は二人共、余りに荒唐無稽なその話を信じることが出来なかった。しかし、紅音〈あかね〉を失った柚希の真摯に語るその姿に、少しずつ受け入れる姿勢になっていった。 そして何より、クラスメイトの三人が神隠しにあったこと、神社で起こった、誰人にも説明出来ないこの異様な現象を、ある意味何の矛盾もなく説明出来る柚希の話は、受け入れるに値するものでもあった。 孝司は今、全てを信じることは出来ない。ただ柚希のことを信用している以上、この話を受け入れない訳にはいかない、そう言った。 そして柚希の願い通り、このことは一切他言しない、そう約束した。 早苗はショックを隠しきれなかった。 早苗がいつも感じていた、柚希と紅音の深い絆。そこにこれ程までの理由があったのかと思うと、体の震えが止まらなかった。 紅音が、そして柚希がこれまで背負っていた十字架の
「ありがとうございます、紅音〈あかね〉さん……そんな風に想ってもらえて、本当に嬉しいです」「柚希〈ゆずき〉さん……」「正直に言いますが、実は僕も、紅音さんに告白しようって、ずっと思ってました」「え……」「でも中々勇気が出なくて……だから僕も今、紅音さんに告白します。僕も紅音さんのことが、好き……です……」「柚希さん……」「駄目ですね、女の子にこんな恥ずかしいことを言わせるなんて。僕がしっかりと、先に告白するべきでした」「ふふっ、確かにそうかも。私はともかく、早苗〈さなえ〉さんにはそうしてあげるべきでしたね」「ええっ? 紅音さん、知ってたんですか?」「はい。早苗さんはお友達ですから」「参ったな……これじゃあ僕って、本当に空気の読めない唐変木〈とうへんぼく〉じゃないですか」「はい、晴美〈はるみ〉さんもそうおっしゃってました」「あはははっ……面目ない」「ふふっ……でもこれで、気持ちがすっきりしました」「……」「……この想いだけは、どうしても伝えたかったんです。でも出来れば、こんなことになる前に伝えたかったです」「紅音さん……」「早苗さんにはもう、お返事されたんですか?」「あ、いや……それはまだ……」「駄目ですよ。想いを告げられた殿方としての責務、ちゃんと果たさないと」「でも……」「でも、じゃないですよ、柚希さん。早苗さんは本当に素敵な方です。私がもし男だったら、間違いな
「……」 誰もいない夜道を歩き、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉を探していた。 山崎に会った後で、柚希は学校にも足を向けていた。 そしてそこで、山崎の仲間と思える二人の骸を見つけた。 これ以上被害が広がる前に、何とかしないといけない。そう思い紅音を探す柚希の耳に、一発の銃声が聞こえた。 それはあの、いつも紅音と会っていた川の方から聞こえた。「紅音さん……」 柚希が早足で、あの場所に向かう。 今なら。きっと今なら、まだ間にあう。 紅音さんを守ると先生に、そして自分に誓ったんだ。 柚希が何度も何度も、心の中でそう叫んだ。 * * * 満天の星空が川面に映り込み、輝いていた。 川の周りでは、蛍の光が辺りを彩っていた。「……」 その幻想的な世界の中、紅音が一人たたずんでいた。 妖艶で美しいその姿に、柚希が息を呑んだ。「紅音さん……」 土手を降りながら、柚希が声をかけた。 柚希の声に体をビクリとさせた紅音が、振り返らずに囁いた。「柚希さん……来ないでください」 その声は、風が吹けば聞き取れないほど、弱々しいものだった。 柚希の脳裏に、初めてここで会った時の記憶が蘇る。「それは……無理ですよ。だって僕は、こうしていつも紅音さんの側にいたいんですから」「でも……駄目です、柚希さん……私……今の姿を見られたくないんです……こんな醜くて、罪深い姿……」「紅音さんがどんな姿でも、僕にとって、紅音さんは大切な友達なんです。紅音さん、お願いです。こっちを向いてくれませんか
今、どの程度の被害が出ているのだろうか。 家を出る前に聞いた青年団の無線によると、祭り会場の半分近くが、灰色の死の世界と化したようだ。 怪我人もかなり出ている。 覚醒した紅音〈あかね〉の能力は、明雄〈あきお〉の予想を遥かに超えていた。 明雄が立ち止まり、月を見上げる。 穏やかな夜だった。 虫の鳴き声が聞こえ、時折吹く夜風もまた心地よかった。 いつかこんな日が訪れる……妻を失ったあの日から、明雄には覚悟が出来ていた。 決して人に理解されない、異能の力。 決して人に支配されることのない、忌まわしき力。 それは、この世に存在してはいけない力だった。 それに気付いた時、決断すべきだったのかもしれない。 事実明雄は妻を亡くしたあの日、紅音をその手にかけようとした。 気を失った紅音の処置が済み、晴美〈はるみ〉が妻の遺体を片付けている時だった。 混乱していた気持ちが整理されていく内に、明雄の中に紅音への恐怖が生まれていた。 この子をこのまま、生かしておいていいのだろうか。 この異能の力を、私は制御出来るのだろうか。 この力は、決して世に出してはならないものだ。 ならいっそのこと、今自分の手で封じ込めた方がいいのではないか。そう思った。 明雄は震える手で、紅音の首を絞めようとした。 しかしその時。 明雄の中に、これまでの紅音との生活が蘇ってきた。 初めて抱いたあの日。天使の様に無垢で真っ白な我が子に涙した。 いつも自分の側から離れず、声をかけると嬉しそうに笑った顔。 父の日に、自分を描いてくれた時の真剣な眼差し。 明雄の手が紅音から離れた。 出来ない。私には、この子を殺めることは出来ない。 どれだけ邪悪な力を持っていたとしても。 今目の前で眠っているこの子は、私にとってたった一人の愛すべき娘だ。 例え世界を敵にまわすことになろうとも、私はこの子を